高まる健康志向、
多様化する市場・ニーズに応えて

1970年代に入ると、2度にわたる石油危機によって日本では深刻な経済危機が起こり、日常生活にも物価の上昇などの影響が及びます。しかしその後はバブル景気に移行し、飽食とモノ余りの時代が到来。グローバル化も一気に進みました。

こうした中で、1970年代は消費者の健康ニーズが拡大し、添加物を避けるなど自然派への志向も強まります。さらに1980年代に入るとその嗜好しこうやライフスタイルはさらに多様化。これらにどうやってリーチするのかが企業の課題となっていきます。

写真:健康ニーズの高まりに対応したイベントの様子
1973
  • 健康・栄養食品

    「明治ブルガリアヨーグルト」発売日本にプレーンヨーグルト市場を創造

    1970年代の日本では、ヨーグルトといえば甘味が添加された甘いものでした。そうした中で明治グループは、1970年3月に開催された日本万国博覧会(大阪万博)のパビリオンで偶然、無糖タイプのヨーグルトに出会います。なじみのない「すっぱい」味である一方、健康に良いとの評価もあり、 新たな市場の創造につながるかもしれないと考え、商品化に踏み切りました。

    このとき担当者には、開発のきっかけになった「ブルガリア館」を商品名にも反映したいという思いがありました。しかし、当初は大使館側から許可がおりず断念。1971年に一度「明治プレーンヨーグルト」の名で商品を発売しました。その後も粘りづよく交渉を続けた結果、ブルガリア国営企業との技術援助契約などを経て、1973年に「明治ブルガリアヨーグルト」への改名が実現したのです。

    発売当初の売れ行きは芳しくありませんでしたが、大々的なPRや健康ブームなどもあり、徐々に販売数が拡大。日本のプレーンヨーグルト市場形成に大きく貢献することになりました。さらに1996年には、プレーンヨーグルトで初めて特定保健用食品としての表示を許可されたのです。

    詳細はこちら
    写真:発売当時のヨーグルトの容器

    当初は牛乳のような紙パックで発売されたが、1981年に現在のフルオープンタイプ(全面開口型紙容器)に容器を刷新。
    取り出しやすく、保存しやすい形状は画期的なものだった

1975
  • イノベーション食品

    「きのこの山」発売チョコスナック領域の開拓

    日本初のスナック菓子「カール」を発売した明治グループは、その技術と、蓄積してきたチョコレート作りの技術を活かした「チョコスナック」商品を構想。カカオ豆の高騰や消費者志向の変化からチョコレート市場に逆風が吹く中、独創的なおいしさで売り上げを拡大していきます。

    中でもロングヒットとなったのが、「アポロ」の設備を流用し、チョコレートの傘にクラッカーの柄を取り付けた「きのこの山」でした。4年後には姉妹品である「たけのこの里」も発売し、共にロングヒットとなります。

    詳細はこちら
    写真:きのこの山、たけのこの里

    1975年に「きのこの山」、1979年に「たけのこの里」を発売。
    1976年発売の「ポポロン」などとあわせて、チョコスナック市場の拡大に寄与した

1980
  • 健康・栄養イノベーション食品

    スポーツ用プロテイン「ザバス」シリーズ発売アスリート向けをコンセプトに

    健康食品といえば、弱った体をいたわったり、栄養を付けさせるもの。1978年に発売した「ザバス」シリーズは、こうした既存のイメージを覆す、明るくたくましいイメージの商品を作ろうという思いから生まれたブランドです。大手スポーツ用品メーカーと販売提携し、全国のスポーツ用品店、スポーツ施設に販売経路を広げていきました。

    1980年からは、スポーツ周辺分野への市場開拓に乗り出し、スポーツ栄養セミナーの開催、マラソン競技会への協賛などを通して「ザバス」の周知を図っていきました。

    詳細はこちら
    写真:ザバスシリーズ
  • 食品イノベーション

    「コーラアップ」「果汁グミ」発売新食感の提案でグミ市場を確立

    1980年発売の「コーラアップ」は、歯切れが良く、かむと味が出てくるゼリーキャンデー。これまでにない食感が話題を呼んでヒット商品になり、国内グミ市場の先駆けとなりました。さらに1988年、果汁・果肉の味や香りを損なわずにグミを大量生産する技術を確立し、「果汁グミ」を発売します。これらの商品は子どもたちだけでなく、中高生や大人の間でも人気となりました。

    詳細はこちら
    写真:コーラアップ

    「コーラアップ」

    写真:果汁グミ

    「果汁グミ」

1981
  • 健康・栄養食品

    「ソフトカード
    明治コナミルクFM-K」発売

    写真:ソフトカード明治コナミルクFM-K

    明治グループの粉ミルクの中でも、
    日本で初めてビタミンKを増強した商品だった

meijiの実は……

より良い粉ミルクを求めて、前例のない規模の母乳研究を実施

「ソフトカード明治コナミルク」から始まる一連のシリーズは、1980年代に至ってひとつの転機を迎えます。

当時は1970年代からの第二次ベビーブームが収束して少子化が進行していた時代。世界的に広がった母乳育児推進運動や核家族化などの影響もあって、赤ちゃんを持つご家族は情報不足になったり、逆にマスコミ報道から情報過多に陥りがちでした。
明治グループではこうしたご家族のお悩みに応えるため、1976年に開設した「赤ちゃん相談室」などを通じて情報発信や栄養指導を行う一方で、より良い粉ミルクの開発にこれまで以上に注力します。

そのためにまず、1979年から1981年にかけて、医師と、乳児を持つ母親の協力のもと、全国各都道府県から1,666例もの母乳を収集・分析しました。これは世界的にも例のない規模の調査研究です。この成果を踏まえて1981年に発売されたのが、日本で初めてビタミンKを増強し、ビタミンD3やミネラル、たんぱく質、脂肪の組成に改良を加えた「ソフトカード明治コナミルクFM-K」でした。

詳細はこちら
写真:赤ちゃん相談室
1982
  • グローバルイノベーション食品

    海外展開を強化明治グループのお菓子を世界に

    輸出競争力の強化が求められる中、明治グループは1982年、シンガポールにあった合弁会社を正式に子会社化。チョコスナック「ヤンヤン」のシンガポール現地での製造・販売を始めました。

    当社の技術力が大いに発揮されたこの商品は、スティックタイプのクラッカーにチョコレートをディップして楽しむもので、暑い中でもおいしく味わえることが特徴でした。その後は英国・米国でも「チョコディップス」「スキニーディッパーズ」の名前で販売され、大きく売り上げを伸ばします。

    これに続き、1991年にシンガポールで「ハローパンダ」を発売。独創的な商品を広い地域に提案し、時に潜在的なニーズに応えることで売り上げを伸ばしていきました。

    写真:シンガポールで販売されていた商品のポスター

    シンガポールで販売されていた
    「ヤンヤン」「ハローパンダ」のポスター

meijiの実は……

パンダブームから生まれた「ハローパンダ」。輸出したところ大ヒットに

当社が輸出してきたお菓子のなかでも、幅広い地域でロングヒットとなっているのが「ハローパンダ」です。もともとは1987年、日本国内のパンダブームに応えて「こんにちはパンダ」の名で販売したものでしたが、当時は売り上げが伸び悩みました。
しかし1991年、これを「HELLO PANDA」としてシンガポールで試験販売したところ好評を博します。チョコレートとビスケットの組み合わせがまだ珍しかったことや、ビスケットにチョコレートが封入されているために湿度や気温が高くてもべたつかなかったことがヒットの理由かもしれません。
この商品はアジアを中心に北米でも販売され、現在ではシンガポール、インドネシア、米国で生産、世界40カ国以上で販売されています。

写真:ハローパンダの製造工程とラッピングバス
写真:ハローパンダ

海外で大ヒットとなった「ハローパンダ」。
世界各地で販売され、インドではラッピングバスも運行される人気ぶり

海外で大ヒットとなった「ハローパンダ」。
世界各地で販売され、インドではラッピングバスも運行される人気ぶり

1988
  • 健康・栄養医薬品

    遺伝子組換えB型肝炎ワクチン「ビームゲン」発売

    写真:遺伝子組換えB型肝炎ワクチン

    遺伝子組換え技術を応用して開発された日本初の遺伝子組換えB型肝炎ワクチン